サンフレッチェ広島の「11番」は、今やサポーターにとっての特別な番号となった。クラブ史、いやJリーグ史に残る大エース=佐藤寿人が背負っていたことが最大の要因である。そして今、アカデミー出身の満田誠がこの番号を身に付け、歴史を引き継いでくれた。
 ただ、紫の11番は昔から特別だったわけではない。
 1994年の1stステージ優勝時は固定番号制ではなかったが、チェコ人のアタッカーであるパベル・チェルニーが多くの試合で11番を背負い、優勝を決めたジュビロ磐田戦では決勝点を叩き込むなど大きな貢献を果たした。固定番号制になった1997年以降は、笛真人、アウレリオ・ヴィドマー、森山泰行といった攻撃的な選手が身に付けていたが、いずれもスペシャルな活躍ができていたわけではない。
 11番がインパクトを与え、多くのサポーターから愛された選手と言えば1999年、アビスパ福岡から広島に移籍してきた藤本主税(現ロアッソ熊本ヘッドコーチ)が思い出される。
 徳島市立高で学んでいた藤本は当時、広島への加入を熱望していた。故郷・徳島から近いと言う理由もあっただろう。幼少の頃に父親を亡くし、母1人の手で育った藤本にとっては、プロは「なりたい」ではなく「ならないといけない」ものだった。だが、勢い込んでトレーニングに参加したものの、クラブからの返答は「NO」だった。
「絶対に見返してやる」
 そんな強い気持ちを持って、彼はオファーをくれた福岡への加入を決めた。だが、当時の福岡は中払大介や久藤清一、久永辰徳ら若い有望株がひしめき、競争は激化。さらにプロ2年目の1997年に就任したカルロス・パチャメ監督とも衝突してしまい、この年の出場はわずか1試合に終わった。
 紅白戦にも参加が許されない日々が続き、若き藤本は苦悩する。だが、彼は自分を磨くことをやめなかった。雨が降るなか、涙か雨か分からないものが頬をつたうなかで、フリーキック(FK)を何度も何度も蹴り込む。その努力が、彼自身を大きく成長させた。
 1998年3月21日、鹿島アントラーズ戦で決めたプロ初得点は、苦境で磨いた直接FK。このゴールを皮切りに藤本はリーグ戦30試合6得点を記録し、福岡の主力として一気に頭角を現した。
 この年のオフ、広島は久保竜彦頼みとなっていた攻撃陣を補強するべく、リサーチを重ねた。そのなかで、藤本の名前が浮上する。福岡との契約が難航し、獲得できる可能性もあるという情報が入ってきた。
 オファーを受けた藤本は、心が動いた。
 自分を加入させなかった広島を見返したい。その想いで、福岡で努力を続けてきたのに。そういう想いの一方で、どうしようもない感情が彼を包んだ。
 1999年、藤本主税は広島に移籍する。人間の感情の複雑さは2023年、「広島を憎んでいた」とまで言った加藤陸次樹の移籍劇で痛感したが、藤本移籍はその先例だった。
 また広島にとって彼の移籍がエポックだったのは、それまで他チームの主力を引き抜いたことがなかったということ。しかも、2000年に開催されるシドニー五輪代表の有力候補と目されているほどの可能性のある若手を迎え入れたことは、かつてなかった。今までは、他チームで出場機会を失っていた能力の高い選手を探し、声をかけて移籍させていた戦略が、この藤本以降から少しずつ変わっていったのだ。
 1999年、広島の初年度で藤本はリーグ戦27試合に出場して5得点を記録。トップ下のポジションを獲得し、彼を起点に多くのチャンスを作った。そして翌年、森山泰行の退団を受けて11番を継承。三浦知良に憧れ続けた藤本にとっては、念願の11番だった。
 シドニー五輪の代表には選出されなかったが、11番を背負った好漢は広島で着実に力を付ける。そして2001年、超攻撃サッカーを標榜するヴァレリー・ニポムニシ監督が就任すると彼の才能は一気に爆発した。
 ロシア人のヴァレリー監督は4-2-1-3のフォーメーションを採用。藤本は彼にとっての最適ポジションといっていい左ウイングを任され、左サイドバックの盟友・服部公太との連係・連動でチャンスメーカーとしての本領を発揮。鋭いドリブルと精度の高いクロス、カットインからのシュートで相手に脅威を与え続け、リーグ戦28試合9得点というキャリアハイの成績を記録。この年、日本代表にも初めて招集された。
 だが、ヴァレリー監督と藤本は、常に幸せな関係にいたわけではない。
 2001年10月17日、札幌厚別競技場での2ndステージ第9節コンサドーレ札幌戦。この日はとにかく寒かった。本来であればナイターではなくデーゲームでやるべきだが、この日はミッドウイーク。ナイターは致し方ない。
 だが中3日で広島から札幌まで移動してきた選手たちは、疲労の塊。足には鉛がついたかのように、全く走れていなかった。パスも通らず、連係もほとんどない。
 藤本は苛立った。ミスをした相手に容赦ない怒りをぶつけ、若手に対して厳しい口調で言葉を投げつけた。それは、記者席にまで響くほどのボリュームだった。
 彼にしてみれば、すべては勝利のため。当時の広島は年間11位に位置し、降格圏の15位・東京ヴェルディとの差は8ポイント。だが、前節の柏レイソル戦で4失点の大敗を喫したこと、ここまで3連敗を2度、5連敗を1度経験するなど不安定なチーム状態を考えれば、決して安心できる順位ではなかった。だからこそ、この札幌戦には勝利が必要だと考えた。
 だが前半12分に播戸竜二、同29分にウイルと札幌に得点を許し、藤本は苛立った。チームをよくするためには、ミスをなくさないといけない。しかし、勝ち点を落とせない状況でミスをしてしまう若手が、許せなかった。
 その姿を見て、ヴァレリー監督は決断する。藤本、交代。
 まさかの采配に、藤本は呆然。こみ上げる怒りを隠すことはできなかった。水が入ったボトルを蹴り上げ、望月一頼GKコーチがかけようとしたコートを払いのけた。
 2-4というスコアで敗戦したあと、ヴァレリー監督はこう語った。
「チカラはチームのためにではなく、自分のためにサッカーをやっていた。だから、交代させたんだ」
 これまでどんな試合であっても個人批判はせず、すべては自分の責任だと語ってきた指揮官にとって、初の選手批判だった。
 重苦しい雰囲気のまま、チームは東京に移動。中2日での東京V戦のために準備をしないといけない。前日練習後、筆者はヴァレリー監督に質問した。
「札幌戦のあと、藤本選手と話をしましたか」
 それまで穏やかな口調で質問に答えていた監督の顔色が、一変した。
「私からは、何も言うことはない。選手から話があるのならば、私の部屋の扉はいつでも開いている。チカラは何も言ってこないし、それは彼にとっては何もないってことなんだろう。札幌戦の交代についても、理由は彼自身、分かっているということだ」
 一方、藤本は軽いトレーニングメニューをこなすと、さっさとバスに乗り込んだ。彼がコメントすることは、なかった。
 最悪の雰囲気のまま、東京V戦を迎えた。結果は0-2。残り5試合で東京Vとの差は5ポイントに縮まった。降格の危険水域に入ったことは間違いない。しかも、最後の5試合は、ヴィッセル神戸、ガンバ大阪、清水エスパルス、ジュビロ磐田、鹿島。特に清水と磐田、鹿島は2ndステージ優勝を争っていたトップ3。勝ち点が取れる可能性は薄いと見るべきだった。
 絶対的守護神である下田崇は東京V戦でレッドカード、次の神戸戦には出場できない。その神戸戦を最後に、トップ下のレギュラーであるスティーブ・コリカがワールドカップ(W杯)予選を戦うために離脱が決定している。そして、藤本は監督との確執のために厳しい立場に。ネガティブな雰囲気しか、広島にはなかった。
 10月23日、広島でトレーニングが再開された。この週末はナビスコカップ(現ルヴァンカップ)の決勝があるため、リーグ戦は中断。再起をかけた神戸戦は、10月31日に行われることになっていた。
 この日のミーティングで指揮官は選手に告げた。
「練習で100%の力を発揮しない選手は、試合には使わない」
 その言葉のあと、藤本は主力組から外された。
 札幌事件の後、彼は多くの関係者から「監督と話したほうがいい」とアドバイスを受けたが、藤本は動くつもりはなかった。ただ時間が経つにつれ、自分の目の前に広がる現実を見るにつれ、いてもたってもいられなくなった。
 この日、筆者が監督の取材を行っていると、その場所に藤本がやってきた。
「あ、取材中ですか? すんません。監督、取材のあとでお話したいんですが、ちょっとええですか?」
「チカラ、待ってくれるか」
「はい、大丈夫です。ほな、待ってます」
 この時、ヴァレリー監督は広島に来て一番、嬉しそうな表情を見せた。
 翌日からの藤本は、凄まじかった。トレーニングで自分の実力を圧倒的に誇示し、その上でチームのオーダーをしっかりとこなした。誰が見てもレギュラーは藤本。ヴァレリー監督はやがて、藤本を主力組に戻した。
「山形恭平や松下裕樹といった若手が必死で闘っている。あいつらが持っているガムシャラさや必死を、俺は忘れていた。甘かったのは俺だ」
 10月31日の試合後、当時は神戸でプレーしていた三浦知良は、こう語った。
「完敗。スコアは2-3かも知れないが、0-6でもおかしくなかった」
 それほどの差を広島は見せ付けた。その主役は、先発に復帰した藤本。前半3分には大木勉のゴールをアシストし、同41分には自らゴール。1得点1アシストだけでなく、チームのために全力で走り回り、ヴァレリー監督をして「彼にとっては今季最高のパフォーマンス」と称賛させるほどのプレーを見せ付けた。
 その勢いのまま、広島は走る。残り5試合で4勝1敗。清水に3-0、鹿島には4-1。磐田には0-1で敗れたが内容では互角以上。強豪相手に破壊力抜群の試合を見せ付けた広島は、ステージ3位に躍進して、余裕を持って残留を成し遂げた。最終戦、1万9423人のサポーターが詰めかけたホームスタジアムは笑顔が弾け、その中心に背番号11、藤本がいた。
 藤本と広島にとっての不運は、ヴァレリー監督がこの年限りで退任し、中国リーグの山東魯能に移籍したこと。リーグ戦30試合で61得点60失点という破天荒な攻撃サッカーを見せ付けたこのチームは瓦解し、翌年はJ2降格。この年限りで、藤本は広島を去った。
 もしヴァレリー監督が広島で2年目を迎えたら、果たしてどうなっていたか。それは誰にも分からない。ただ、円熟期を迎えていた藤本のプレーを、もっと広島で見たかった。久保竜彦、大木勉、スティーブ・コリカ、服部公太とタレントが揃い、2年目の森﨑和幸と駒野友一がポジションを確保し、森﨑浩司が大きな成長を遂げていたこのチームを、あと1年、見たかった。その想いは、今も強い。
 ちなみに、今はピエロス・ソティリウが引き継いでいる広島の伝統パフォーマンス「弓矢のポーズ」は、藤本が「阿波踊りパフォーマンスのほかに広島らしいものを」と考えて作ったもの。それをウェズレイや李忠成らが受け継いで、伝統となったものだ。そういう意味も含め、藤本は広島の歴史の一翼を担った、偉大なプレーヤーだったと考える。
(文中敬称略)


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