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サッカーに関する移籍・引退・試合結果など

      マンUとマンCの立場が完全に逆転。名門凋落の理由は過剰な商業主義か。

       その昔、マンチェスター・ユナイテッドはローカルライバルを歯牙にもかけなかった。「マンチェスター・シティ? どこのどいつだい?」といった風情である。
       初対戦となった1894-95シーズンは、いきなりダブルを食らわせた。1953年以降5分け2敗となったこともあったが、その後の8試合は6勝2分で借りをきっちり返している。
       また、イングランド1部リーグにおける優勝回数もユナイテッドの7回に対し、シティは2回。同じマンチェスターを本拠にするとはいえ、ライバル関係が成立するような間柄ではなかった。
       トップリーグの名称が、イングランド1部からプレミアと改称された1992-93シーズン以降も、両チームの立ち位置に変化はなかった。
       1993-94シーズンから3年連続でダブル。1995-96シーズンはFAカップでも2-1の勝利。ダービーマッチとは名ばかりで、ユナイテッドはシティを完全に見下ろしていた。しかもシティは、1996-97シーズンからは4シーズンに渡り下部リーグで苦しみもがいていた。
       1998-99シーズンには3部まで降格した。この間カップ戦でもマンチェスターダービーは実現せず、両チームの再会は、シティがプレミアリーグに復帰する2000-01シーズンまで待たなければならなかった。
      買収で変わった立ち位置。 2000-01シーズン以降も、大きな変化は生じていない。
       ダービーマッチで互角の展開を見せたシーズンもあったが、それはユナイテッドがシティを意識していなかったからだ。
       赤い悪魔がライバルと目していたのはアーセナル、リバプール、チェルシー。シティ戦はテンションが上がらず、アレックス・ファーガソン監督(当時)が主力を休ませるケースも少なくはなかった。
       しかし、買収によって両チームの立ち位置が変わる……。
       2005年、ユナイテッドはグレイザー・ファミリーに、2008年、シティは『アブダビ・ユナイテッドグループ』(以下ADUG)に買収された。以降、両チームは対照的な曲線を描き始める。


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      掲載元:海外サッカー - Number Web
      URL:https://number.bunshun.jp/articles/-/832550

      【釜本邦茂】中島と堂安の突破に迫力は感じたが… 手強い相手には緩急自在の試合運びが必要だ

       森保ジャパンの連勝が3で止まった。キリンチャレンジカップのベネズエラ戦は、酒井のゴールで日本が先制したものの、追加点が奪えないまま終盤に突入し、酒井のファウルでPKを与え失点するという展開で1対1の引き分けに終わった。
       
       ベネズエラの実力は謎に包まれていたけど、相手は日本の攻撃をよく分かっていて、中島と堂安のふたりの仕掛けを警戒してアタッキングゾーンではきっちりと対応してきた。逆に中盤でうまくボールを奪えた時は、素早く逆襲に転じるしたたかさも持っていたし、非常にレベルの高いチームだったと思う。
       
       そうした相手に対して、日本も負けていなかったし、あともう少し決定力があれば勝利を得られていたかもわからない。前半は堂安や中島、後半は原口にも決定的なシーンがあった。ただし、チャンスは作れてはいたものの、攻撃にはどこか連勝中のようなスムーズさを感じなかったのも確かだ。
       
       それを象徴しているのが3試合連続ゴールを奪っていた南野が、この試合ではシュート1本に終わっているという点。これまではビルドアップのなかで中島や堂安が攻撃にアクセントをつけて、最終的に中央の南野がフィニッシュに持ち込むという形が多かったけど、この日はゴール前での南野の良さが消えていた気がする。
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       日本の攻撃が少し縦へ縦へと急ぎ過ぎていた印象があるのも否めない。フィジカル的に強くて組織的な守りを敷いていたベネズエラに対して、ちょっと余裕がない強引すぎる攻撃も少なくなかった。狙いすぎた縦パスを引っかけてカウンターを食らう場面もあったし、堂安や中島にしても突破の迫力はあるんだが、もう少しスピードダウンしてサイドチェンジを入れたり、後方の押し上げを促したりしてもいい場面があった。
       
       おそらく相手も、ここ最近の日本の試合を研究してきただろう。相手のマークが厳しくなってくるなかでも崩していくためには多少の強引さとともに、より緩急を交えたゲーム運びが重要になると思う。

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      掲載元:サッカーダイジェストWeb
      URL:https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=50376

      モドリッチの「真の後継者」へ。コバチッチが兄貴分から学んだ極意

       マテオ・コバチッチは生真面目な若者だ。ディナモ・ザグレブのユース時代から天才児と騒がれる存在だったが、試合中のタックルで右脚を複雑骨折し、15歳で選手生命の危機に立たされた。キリスト教への厚い信仰心を育んだのもその頃。16歳の時には、こんな武勇伝を残している。
       
       10か月のリハビリを経て復帰した直後の試合、コバチッチは再び右脚に激しいタックルを受けて倒されてしまう。両チームの選手が揉み合う中、スクっと立ち上がるとユニホームを脱ぎ捨て、輪の中に飛び込んでいった。その理由はこうだった。
       
      「聖なるユニホームをまとって殴り合うのは不適切な行動だから」
       
       間もなくしてコバチッチはトップチームに昇格。敵陣を切り裂くドリブルと華麗なパスから、プレースタイルは違えど「クロアチアのリオネル・メッシ」と騒ぎ始めたメディアに対して、当時の監督ヴァヒッド・ハリルホジッチが報道規制を敷いたほどだった。
       
       クラブ史上最年少の17歳でキャプテンマークを巻き、18歳になった13年1月にはインテルへ電撃移籍。背番号10はインテル首脳陣の期待の現われだったが、適正ポジションすら定まっていなかったコバチッチには重荷だった。
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       A代表デビューはインテル移籍の2か月後に迎えたブラジルW杯予選のセルビア戦。憧れのルカ・モドリッチと中盤センターを組むと、臆することなくその豊かな才能を発揮した。
       
       21歳となった15年夏には、キャリアの大きな転機を迎える。レアル・マドリーへの移籍だ。フロレンティーノ・ペレス会長ら首脳陣に対して獲得を進言したのは、誰あろうモドリッチだった。
       
      「ペレス会長、彼はきっと2年後にはバロンドールを獲得しますよ」
       
       インテル時代は苦悩がプレーに如実に現われていたが、模範となる先輩が身近にいる環境は心身両方で大きなプラスとなった。
       
      「ルカ(モドリッチ)はサッカー選手というよりも、ひとりの人間として僕にアドバイスをくれるんだ。例えば、『取り乱すなよ。常に冷静でクールな頭脳を持つべきだ』というようにね」
       

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      掲載元:サッカーダイジェストWeb
      URL:https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=50305
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